信心と自己暗示

仏教

私は宗教という存在というか風習・文化?というものにとても興味がありますが、自身が何か厚い信仰心があるかといえばそんなわけでもありません。
とはいえ、専門的に勉強したことはありませんが、仏教とか東洋哲学的な思想とか文化が好きですし、また興味があります。
個人的に、これからもそれらのジャンルをマイペースで勉強していきたいと思っています。

以前にも書いたのですが、私は毎日約2km徒歩で通勤しています。まあまあ良い運動になるので、結構気に入っているのです。
その通勤ルートに結構立派な神社があるのです。奈良時代?くらいからあった立派な神社とのことで、基本的に今は跡地なのですが、跡地に隣接して立派な拝殿が建てられています。
その跡地がちょっとした広場というか公園の様になっていて、その敷地を通って通勤しているのですが、通勤の往復のどちらかにできるだけ拝殿で拝むようにしています。
実のところその行為自体には特段大層な意味はないのです。ちょっとした習慣のようなものですね。
どちらかといえば帰り道に寄ることが多いので、お願いする内容は「今日も何とか平穏に過ごせてありがとうございました」「明日も今日と同じように平穏な一日をお願いします」「明日は今日よりも少しだけでも良い一日になりますように」「自分と関わったすべての人たちが幸せな気持ちで過ごせますように」、せいぜいこんなところです。
大きくかつ具体的なお願いをすることはありません。というか、日々思うことってこれくらいのことなのです。

日常生活の中で細かいことに目を向ければ、より具体的な希望ってのは確かにありますが、そういうのは神社やお寺でお願いするものとは違うと思えるのです。
で、もっと言えば、別に何か(神様的な存在も含む)に「お願い」しているわけでもないと感じています。
毎日手を合わせて、小さい声で口ずさむことで「自己暗示」というか、忘れないようにしているのかもしれません。
その内容も、ひたすら感謝です。
お寺や神社の素晴らしいところは、人をそういう気持ちにさせてくれるところですね。

対象がなければ難しい

でも、今でこそこのような心持ちになっていますが、若い頃はそんなことはありませんでしたし、子どもができてからも毎日忙しくてそれどころではなかったと思います。
今になってなぜ上記のようなことを拝殿の前で想うのか、やはり、いろいろな後悔があるからだと思います。
自分に対してもそうですし、自分と関わった多くの人たちに対してもそうです。決して良い影響を与えてばかりではなかったと思いますので。
別に罪滅ぼしというような大げさなものではありませんが、やはり自分と関わってきた人たちに、少しでも幸せに過ごしてほしいと願ってしまうのです。

やはり若いころは傲慢でした。拝んだり祈ったりすることに抵抗がありましたし、その行為自体に意味があるとも思えませんでした。しかし、自身の身の上にいろいろな事が起こり、そに影響は自分だけに収まらず、多方面に諸々の影響を与えてしまった今となっては、何かにすがるというか祈るというか、そうせざるを得ない気持ちになってしまっています。
いち自分というちっぽけな存在は自分自身の心を受け止めきることさえ難しいのですね。

いわゆる自省とか内観だけではどうにもなりません。最近はマインドフルネスとかいう言葉も聞きますが、結構難しいのです。
だから私は神社やお寺など、自分の心を落ち着かせてくれる物理的な目に見えるものを前にして、自分の心の内を少しアウトプットすることにしています。これで、とても落ち着くのです。

本当に近頃は習慣化されてしまって、手を合わせないと落ち着かなくなってきました。でも、心は以前よりも穏やかになってきていると思います。

ミドルエイジ(中年)が少しでも心穏やかに過ごすためのメソッドだと思っています。

コメント

  1. […] […]

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