コーヒーを飲みながら

今日は暑い一日です。しかも風が強い!

こんな日は外出するのも億劫なので、今は家でコーヒーのみながら過ごしてます。
特段何をしているわけでもないのです。というよりも何をする気力も起きないのですね。
離婚調停の決着が近づいているからなのでしょう。

人の気持ちって不安定でいい加減なものだと実感させられます。あんなにも追い詰められた気持ちになり、もう他の選択肢を考えられなくなるくらいだったのに、それでも今になっていろいろな感情が頭の中を行ったり来たりします。

本当にこれで良かったのか、これしか道がなかったのか、自分の精神状態はどうだったのか、その他いろいろですね。世の中離婚している夫婦なんて珍しくもないと思うのですが、みんなはどうだったのか、自分だけがこんなに面倒な感情になっているのか。

それとも決着がついたらスッキリするものなのか。わかりません・・・

考えても仕方のないこと

そう、分かってはいるんです。私がいくらああだこうだ思い悩もうと、所詮他人の脳みその中のことなんて分かりようがないんです。
だから結局はなるようにしかならないのです。でも、それが自分の脳みそのどこかで分かっていても、脳みその違う部分が思い悩む、みたいな訳のわからない状態が生じるのです。

本当に人間って厄介な存在です。

でもつくづく思います。基本的に今の状態は、これまでの自分の数々の行動と、それを選択した自分によって引き起こされています。だから当然ながら責任は自分にあるのです。
しかし、その数々の選択を完全に自分がコントロールしたという実感がないのです。

その時々の状況、運、タイミング、自らの精神状態、なんだか自分のようで自分でない、そんな風に思えてならないのです。
もちろん私は、れっきとした責任主体であり、正常な判断能力を有しており、自らの行動に対する責任があります。責任をよくわからない何かに転嫁するつもりは毛頭ないのですが、それでも何か不思議なのです。

行動と追認

心理学や脳科学的には、もしかしたら当たり前のことかもしれませんが、私はそっち方面にまったく明るくないので、あくまで自らの体験的にしか語れません。
それで思うのは、考えているようで実はそれほど考えずに選択しているように思うのです。ある環境や状況に対して、口からでる言葉や身体の行動、それらの選択は比較的適当だったように思うのです。
今にして思えば、なんであんなヤバいことを・・・みたいなものが多々あります。そりゃ、こんな風になるよってなものです。

歴史上の運命の選択、みたいな話ってよくありますけど、何度繰り返しても、結局選択する人が変わらなければ何度でも同じ選択をしてしまうと思うのです。
事前に考え尽くしたみたいなものも、実は後から理由をこじつけただけのように思えてなりません。

となると、人間の自由意志や選択って、いったいどれほどのものなのでしょうか。
私は運命論者ではありませんが、やはり不思議です。

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