所有するということ

【私のモノ】

「所有」ということに関して、考えてみました。
前にも書いたとおり、私はいろいろなものを失っています。でも、それって本当に失ってるのか? そもそも所有していたのか? などと考えてしまうことがあるのです。
「所有」っていうのは、自分のモノってことですよね。それが不動産とかであれば、つまるところ所有権という「権利」がやりとりされるだけで、現物を持って動き回れる訳でも無く。このあたりは法律に詳しい人達にお任せするとして、もっと感覚的に、それじゃ家族とか恋人とかの人間は? もちろん「所有」しているわけではありませんよね。

私は結婚して20年以上、現在は離婚調停中ですが、なんだか不思議な感じです。
離婚なんて昨今珍しくもないので、何を今更なのですが、我が事となると思うところはいろいろあります。何と言っても、一緒にいた時間とか空間が、物質化したみたいに存在感を持って迫ってくるのです。人間っていうものは、記憶をやたらと作り込むというか、磨き込むものだな、と実感します。
こういう記憶が人を追い込んだり、判断を誤らせたりするのは間違いありませんね。

さて「所有」ですが、夫婦関係って、当然のことながら所有の関係ではありませんよね。なのになぜ、失うと喪失感みたいなものが生まれるのか。関係性ってやつの力なのか。
私の場合は多分、費やした時間なのかな、と思っています。人によっては、その人そのものに対する執着みたいなものがあるのかもしれません。ストーカー的な感覚ってそんなのでしょうかね。

「費やした時間」として見てみれば、時折、長く付き合っている恋人や、結婚生活の長い夫婦が「腐れ縁」なんて言葉を使いますが、これこそが費やした時間を物質化したもののように感じてしまいます。
「家族」って、まさにその典型なのでしょうか。仕事でよく見かけた、いがみあっている老夫婦やお互い嫌悪しあっているようにしか思えない老夫婦、DV老夫婦。
言葉として適切かどうかわかりませんが、投資をしている人が良く使う「損切り」のような、何らかの決断ができなかった、もしくはそういう選択肢がなかった人たち。

でも、絶対的に妻であれ夫であれ恋人であれ、もちろん子どもであれ、他者が所有できるものではありえませんし、「家族」はそういうツールではないと信じたいです。。

いろんな人が言っていますが、他者は自分がどうこうできるものではないのです。

【捨てるべき執着】

そこで問題になるのが「執着」ですよね。
あ~、もう、この言葉って呪いのようです。
なぜって、この「執着」が自分の人生を狂わせてきた根本原因と思うからです。

人に対する執着、モノに対する執着、お金に対する執着、仕事に対する執着、時間や経験、記憶に対する執着。
これらに囚われて、これまでの人生、判断を間違えたり決断できなかったりしてきました。

今、夫婦関係は終わりを迎えようとし、子どもは自立しようとしています。家を手放し、車を手放し、その他長く所有していたいろいろなモノの大半を手放しました。そのこと自体は自分を自由にさせてくれると感じています。

しかし、未だ仕事やお金にはガチガチに縛られています。これをどうにかしたい!

自分にまつわるあらゆる「所有」の感覚をもっと薄めていきたい。そんな風に考えてます。
ちなみに私は私的所有を拒否するという思想を持っているわけではありませんよ。あくまでも個人的な話です。

だって、お気に入りの中古のぼろジムニーは手放せませんしね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました